Rides Against

Rides Against(ライズ アゲインスト)─グランド・セフト・オートシリーズにおけるロールプレイングコミュニティ「RP_JP」発の、複数人によって運営される自動車総合情報サイトです。主にGTA5内に登場する架空の自動車を、現実世界の媒体に負けない熱量で、リアルにレビューしていくという活動をここで発信しています。(モデル車両のスペック及び史実との乖離に関してのご意見、ご感想は一切受けかねます。)

Vol.22 全ての始祖、全ての基準 -1954 Bürgerfahrzeug Typ1 "Weevil"-

ブーガーファーツァイク タイプ1
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世界が動いた瞬間

 「素晴らしい自動車を作る国」と聞いて、あなたはどこを思い浮かべるだろうか?

  我らがアメリカ合衆国は言わずもがな、かつてその高性能低価格でアメリカを貿易摩擦で死の淵へ追いやった日本、名車メーカーが軒を連ねるイタリア、歴史的メーカーが多く筆者の母国でもあるイギリス、独創的な独自路線を突き進むフランス…

  それらを包括した上で「全ての基準的な存在」としてドイツを挙げる人も多いと思う。大衆車から高級車にスーパースポーツ、大型の建設車両から戦車まで、ありとあらゆるカテゴリーの自動車を一国で網羅し、欧州のあらゆるブランドを傘下に収めるメーカーを引っさげ世界中の自動車市場を隈無く制覇。まさに現代自動車産業界のスタンダードを提示し続けるドイツを代表するメーカーこそ、今回ご紹介する名車Typ 1を生み出したBF(ブーガーファーツァイク)である。

 

 

  タイプ1の歴史は、実に1933年までに遡る。ドイツ首相に就任したアドルフ・ヒトラーが、アウトバーンの建設と国民車思想を打ち出したことに端を発する。当時、依然として高価だった自動車を「国民全員が所有できるようにする」というプランは、ヒトラー率いるナチス党が有権者の支持を得るには絶好の計画であった。

  ヒトラーが設計を依頼したのは、後に高性能スポーツカーメーカーを設立するフェルナンド・フィスター。ベネファクター退社後の1931年から、自動車メーカーからの設計請負業務を行う事務所を設立していた彼は、ヒトラーより

・頑丈で長期間大きな修繕を必要とせず、維持費が低廉であること

・標準的な家族である大人2人と子供3人が乗車可能なこと(すなわち、成人であれば4人乗車可能な仕様である)

・連続巡航速度100 km/h以上

・7 Lの燃料で100 kmの走行が可能である(=1 Lあたりの燃費が14.3 km以上である)こと

空冷エンジンの採用

・流線型ボディの採用

といった厳しい条件を提示された。これらの条件は兼ねてよりフィスター自身が目指していた国民車コンセプトに多く合致していたが、ヒトラーがフィスターに強調したのは「これらの条件をクリアした上で、1000マルク以下で販売できる自動車を作ること」であった。

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[↑ヒトラーとの邂逅以前にフィスターが独自に開発を進めていた試作車フィスター・Typ12(1931年)。]

 

  フィスターは、過去に幾度となく頓挫してきた小型で安価な大衆車開発の経験を元手に、膨大な数のコンセプトカーをテストドライブにかけ、その弱点を洗い出し次第に洗練させていった。既に世界に先駆けて大量生産による低価格な自動車生産を実現させていたヴァピッド社に2度足を運び、現場での生産体制の詳細に至るまで徹底的に視察した。

 

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[↑BFの名を冠した試作車第1号。既にデザインは完成に近付いていたが、特徴的なヘッドライトはフェンダーではなくボンネット前方に取り付けられている。]

 

  1938年、プロトタイプのファストバックセダンとカブリオレが完成し、後年に伝わるブーガーファーツァイク(市民の乗り物)コンセプトのスタイルが確立される。1939年にほぼ完成系のサンプル車両の製造が開始され、計49台が制作された。当初は職人による手加工で行われたが、プレス加工によるボディパネル成型の手法が確立されると、大量生産準備が整えられ、各地にディーラーを展開する計画が実行される目前まで来ていた。

  しかし同年、第二次世界大戦が勃発。ブーガーファーツァイク思想は全て白紙に戻され、国民の手に渡るはずだった車両はその大半を軍用仕様として生産する運びとなる。1941年に市販第1号が世に出されるも、国民は自動車どころでは無かった。

  皮肉にも、その優れた生産性と整備性、各種装備の後付けや現地での粗雑な運用にもビクともしない耐久性は、ナチス・ドイツの戦績に多大な貢献をもたらし、実用面でのこの上ないテストドライブと、戦後に繋がる大きなコマーシャルとなった。

 

──1945年の終戦。焼け野原となったドイツ。戦時中よりドイツの工業国としての実力に苦しめられた連合国は、焼け残った様々な自動車・航空機・船舶工場の技術の収奪に躍起になっていた。しかしながら、当時としては前衛的なBF思想を理解する国は少なく、設計、設備はおろか、一体そこで、どのような物作りが行われていたか興味を持つことすらしなかった。かつて、フィスターが視察に訪れたヴァピッド社を有するアメリカですら。

  連合国側の接収対象から外れ、焼け落ちたゴーストタウンに佇んでいたブーガーファーツァイクの工場を視察したイギリス軍将校アイゼン・ハーストは、ブーガーファーツァイクの設計思想に将来性を感じ、手段を尽くして工場を再建し、自動車生産を再開させることを目論んだ。

   その頃フィスター自身は戦犯として収監されていたものの、彼の意志を継いだ技師や、結束を強めたドイツ人労働者たちの手でその名の通り、市民の乗り物が再び誕生する運びとなった。1945年中には、戦時中に磨きあげられた安定した大量生産の手法を余すこと無く発揮し、早くも1,789台を生産。ドイツ国内だけでなくオランダやブラジルに輸出されていった。続々と建てられていくBFの車体工場は失われた雇用を取り戻し、流通を建て直し、ドイツを再び工業国に返り咲かせる足がかりとなった。

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  以降は、戦後の国際的な自動車市場を瞬く間に席巻。軍用車譲りの悪路走破性と気候を選ばない堅牢さ、整備性の良好さに大人4人が乗車し安定した巡航を可能にしたTyp1は、1950年代に入っても、各国の最新小型自動車に引けを取らないものであった。

  その後、ドイツ本国での生産は1978年に終了するものの、エンジンやサスペンション、電装類、エクステリアの軽微な変更等を経て、ブラジル、メキシコの工場での生産は続けられた。2003年にメキシコ工場で最終車両が完成し、総生産台数2152万9646台の世界記録を打ち立て、伝説として自動車産業史に輝かしく名を刻んだ。発表以来、基本的な設計を変えず継続的に生産されていた自動車として、2000万台を超える生産台数を持つ四輪自動車は、今のところ現れていない。

 

 

 

   話を現在に戻す。

「──ピカピカにレストアされた54年式ウィービルが毎日のようにロックフォードを走っている。」

  ある日筆者の元に届いたメール。釘付けになった。

  ウィービル(ゾウムシ)ことブーガーファーツァイク・タイプ1。言わずと知れたドイツ製小型大衆車で、車に一切興味のない若手IT実業家の女性秘書ですらその形は脳内に詳細に描く事ができる程、世界中の老若男女問わず浸透している名車中の名車である。

  が、未だに筆者はこの車のレビューをできずにいた。その知名度と流通量から、ことある事に実物と触れ合う機会は得たものの、そのどれもが取り上げるには相応しくない程にカスタムされていたり、おおよそ当時の雰囲気を感じ取ることが難しい程にくたびれていたり、または最新設計の社外パーツで大幅に高性能化されていた(これではレビューする意味が無い)からだ。

  しかし、話によると当時物のパーツと最低限のアップグレードで完全に当時の姿を取り戻したウィービルを普段使いしているというその人物は、既にその界隈では時の人になっていると言う。無論、筆者も遂に筆をとるチャンスが訪れたと二つ返事で取材を申し出た。

  人伝いにウィービル愛好家を辿り、オーナーと接触


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  予定時間の20分前、撮影準備をしている我々の元に、軽快なエキゾースト音を響かせながら1台の真っ白なウィービルが現れた。

  聞くと、オーナーは大学教授。このご機嫌なヒストリックカーは、ほぼ毎日足車として彼の通勤に使われているという。

 

 

基本的なスペックf:id:LsCarLife:20210814040418j:imagef:id:LsCarLife:20210814040429j:imagef:id:LsCarLife:20210814040439j:imagef:id:LsCarLife:20210814040449j:image

販売期間:1941〜2003年

ボディタイプ:2ドアファストバックセダン、2ドアカブリオレ

乗車定員:5名

エンジン:1.1ℓ、1.2ℓ、1.3ℓ、1.6ℓ空冷水平対向4気筒 OHV

サスペンション:前後ジョイントレス・スイングアクスル

駆動方式:RR

変速機:4速MT/3速セミAT

全長:4,055 - 4,140mm

全幅:1,540 - 1,590mm

全高:1,500mm

ホイールベース:2,390 - 2,410mm

車両重量:720 - 920kg

 

普段使いにこだわる理由

   このウィービルのオーナーは、この他にも'80年式デュボーシー・ラピッドGTやランパダーティ・ピガールを所有する生粋のヒストリックカーフリークであるが、それらとウィービルの取り扱いについては明確な違いがあると言う。

  「足車として国産のコンパクトカーを所有していた時期もありましたが、今では可能な限り車での移動はウィービルを使っています。それがBFがこの車に望んだ未来だからです。ラピッドやピガールを定期的なメンテナンスや天候に恵まれたイベント以外で気安く乗り回すようなことをせず、ガレージに納めているのは、そもそもそれらは生まれた時からそういった使われ方を想定されていたからなのです。」


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  なるほど、ハナから丁重に扱われる前提で作られた車と、あくまで日常使いを主眼にし、整備も修理も簡単なウィービルに一線を引いて扱っている(もちろん、常に車の状態を気にかけ、基本的なメンテナンスを自ら行うことを“当たり前”として捉えておく必要があるが)。2000万台以上製造され、2003年まで新車が手に入ったウィービルならそれも容易い話だろう。しかし、1954年製となれば話は別だ、と筆者は思った。

  過去にも'60年代以降製造の当時モノは度々見かけたことがあるし、'70年代にもアメリカ国内で爆発的な人気を誇ったため今でも計り知れない量の個体が流通している。だが、いわゆる“初期型”と呼ばれる'50年代製のモノについてはあまり輸出を念頭に置いておらず、そのほとんどが欧州内での流通に留まり、愛好家の中でも滅多に出会えない存在だからである。しかしながら、オーナーはこう続ける。

「故障してもパーツが手に入りさえすれば直すことが可能であるという点において、この車と昨日製造された新車の間に差は存在しません。そして、70年間も設計の大半を変えることなく製造され続けたウィービルは、世界中にパーツのシンジケートが築かれ、国内外を網羅するオーナーたちのフォーラムでは24時間先達たちに質問することができます。デザインそのものが変更されてしまったインパネや灯火類を除けば、この車は向こう100年は生き残り続けると思いますよ。」

  90年前にフィスターが思い描いたこの車の未来は想像しえないが、ブーガーファーツァイク思想そのもののコンセプトは、真の意味での大衆車の始祖であり、今現在まで明確に存在し続けるブレることの無い基準を我々に提示し続けている。必要とされない物はいとも簡単に淘汰されてしまうこの世界で、1930年に原型が作られた自動車の新品のラジエーターが注文の翌日に届いてしまうこの事実が、何よりこの車の成功と存在の偉大さを物語っているのだ。

 

 

実際に乗ってみた

  いざ実際に触れてみる。まずはエクステリアからじっくりと眺めてくことにしよう。


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  '50年代製ウィービルの特徴として、無機質なアイアンバンパーと非常に小ぶりなテールランプ、フェンダーに沿うように寝たヘッドライト等が挙げられる。しかし、特に初期型は短期間に多くのデザイン変更が行われたため、余程のマニアでなければひと目で年式を言い当てる事は難しい。エクステリアまわりのパーツの入手の難易度の高さも所有のハードルを高めている一因である。「年代が違うパーツでも、取り付け穴が同一なため装着できてしまう」事に伴うアベコベな個体が多く流通している点も拍車をかけているだろう。

  この車体がSAの地を踏んだのはおよそ15年前。その風体とAfter'93のライセンスプレートの組み合わせに少々違和感があるのは筆者だけだろうか。


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  価格をぐっと抑えた大衆車でありながら、各所に散りばめられたクロームメッキ仕上げのパーツによる高級感や、70年前にプレス加工されたことが信じられない程に完璧なチリ合わせのボディパネルに目を奪われる。

  また、ウィービルの特徴として、当時としては有り得ない程にボディの気密性が高いことが挙げられる。 

  全鋼製のセミモノコックボディは当時最先端で、同時期に採用されている例はごく一部の高級スポーツカーのみ。ドイツは戦前から高性能なゴム製品を製造していた事もあり、ドアパネル周りのパッキングの緻密さは目を見張るものがある。実際、ブーガーファーツァイクによる実験では、プールに落とされたウィービルは9分間沈まなかったと言う。ほぼ無改造のウィービルがメッシーナ海峡を横断したり、川の氾濫による洪水でウィービルごと流された人が無事だったというエピソードも残っている。

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  象徴的な流線型のボディは、最低限の補強で優れたボディ剛性を実現し、資源の節約や車体の軽量化、作業工程の簡略化にも付与した。後にフィスターが手がけるスポーツカー、コメットのデザインにも全面的に取り入れられ、一躍スポーツカーデザインの基準となった。


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  フロントフード内に収められたスペアタイヤは、標準よりも空気圧が高く設定されている。というのも、スペアタイヤのチューブはホースで車体と接続され、ウォッシャー液の噴射ポンプとしても使用されている!さらには、タイヤ内の空気圧が走行適正空気圧まで落ちると、ウィンドウウォッシャーが作動しなくなる弁まで備えられていた。


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  元々小ぶりなエンジンルームに、かなりのクリアランスを持って収められた小さな空冷エンジン。このクリアランスは振動や熱が車内に伝わるのを抑え、空冷エンジンでありながら優れた冷却性を生んだ。後付けパーツによるアップグレードにも広く対応し、大容量バッテリーとコンプレッサーを搭載しエアコンを装着したウィービルを過去にも何台も見かけたことがある。

  長時間の暖機運転を必要としない空冷エンジンは、迅速な出動を求められる緊急車両に適しており、2ドアのモデルしかラインナップされていないにも関わらず、パトカーや往診車、簡易的な消防車として用いられる例が多かった。

  エンジンもモデルチェンジを経るごとに1.1、1.2、1.3…と排気量を拡大させ、最終モデルは1.6ℓにまで拡大された。'54年式のこのウィービルは、1.2ℓエンジンを備えているという点でも貴重だ。また、このウィービルは実用性を重視しバッテリーを6Vから12Vに換装している。


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   ドアを開けて車内を見渡すと、車体と同色に塗装されたインパネと、高級感漂うブラウンのビニールレザーシートが独特な空間を演出している。マテリアルのクオリティを抜きにすれば、雰囲気は当時のアメリカ製高級車とほとんど合致していると言える。ちなみに、メキシコ工場製からは簡素な黒い樹脂パネルに統一されてしまうため、こだわるマニアはドイツ製を欲しがる。

   
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  インパネ中央に鎮座するのは「ランチボックス」と呼ばれるスクエアなラジオスピーカー。ほとんどオリジナルに近いこのウィービルにおける数少ないアップグレードとしてラジオがあるが、あくまでスピーカーは当時モノ。オーディオの世界でも当時のドイツはすごかった。各オーディオメーカーがBFに営業に押しかけ、オプションで様々なラインナップがカタログに並んでいた。

 

  それでは実走と行こう。f:id:LsCarLife:20210812141936j:image

  暖機中のウィービルを外から撮影していたためこの車のミシンのようなエキゾースト音は耳に馴染んだが、シートに腰掛けドアを閉めると、その音がふっと、遠くなる感覚。驚いた。現代の車に乗っている人からすればどうってことないだろうが、70年前の車とは思えない遮音性。前述の気密性の高さと、エンジンのみがまるで空中に切り離されたセミモノコックボディが為せる技だろう。これより騒々しい'80年代製の車はごまんといた。思わず何度もドアを開け閉めする筆者に、オーナーは「だよな。」と言わんばかりにほほ笑みかける。

  

   オーナーのアドバイス通り、ローで引っ張らずすぐさま2速に入れ加速。少し走っただけで、この車のエンジンがご機嫌なことが手に取るようにわかった。パワーこそ無いが、アクセルに対してのレスポンスに一切のもたつきを見せずエンジンは応える。水平対向エンジン特有のバタバタした音が背後から響く感覚は、モーターボートの運転に近い趣がある。


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  四輪ドラムブレーキの感覚は古い国産車で散々体験してきたが、いざ対峙するとやはり冷や汗をかく。現代の車のように瞬間的に踏みつけるのではなく、じっくりと、減速が完了するまで踏み込み続ける。しかし慣れてしまえば、その車体の軽さ故に「現実味のあるブレーキング」と言うような感覚になり、かえってイメージ通りの減速が可能になった。


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  筆者は遠慮するつもりであったが、オーナーの好意によりしばしフリーウェイを走行する。意図的に低回転に振られたエンジン設計は60マイル前後での高速巡航を行うとオーバードライブ気味になり、さぞエンジンに負担がかかりそうな印象を抱いていたが、BFはその前提で設計しているとの事で気にせず踏み続ける。

  車幅に対して少々背が高く、高速安定性に僅かながら不安があったが、元より鋼管バックボーンフレームのシャーシに軽量な車体が乗っかっているため腰の低い重量配分であり、その上、目いっぱい四方に広く配置されたタイヤレイアウト、安定性を求め純正より広いトレッド幅のタイヤを履かされている事によりその不安はすぐに払拭された。長年に渡りスポーツカーの設計を手がけていたフィスターの設計理念が光っている。


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  軍用車譲りの悪路走破性は劣悪なトングバの道を難なくいなす。サスペンションは前後ともかなり前時代的なジョイントレス・スイングアクスルであるが、その余裕ある可動量とそれを実現する前後フェンダーのクリアランス、車格に対して大経のタイヤが凹凸を吸収し、フレームとボディがそれを分散している印象を受けた。同時期の車にありがちな、サスペンションそのものが衝撃をボディ側に押し上げることによる跳ね上げ感はあるが、「車を運転している実感と、それに伴う緊張感」があるため筆者は大好物だ。

  反面、この機構と設計の組み合わせで切れ角が制限され、車格に対して最小回転半径は大きい。この問題と高速安定性のより良い改良案として、'70年代から対米輸出モデルにはダブルジョイント・スイングアクスル、派生型に荷室クリアランスの観点からストラット式サスペンションが採用されるなど、唯一、大幅な改良が行われた箇所でもある。

  
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  たった30psにも満たないエンジンであるが、登り坂であっても軽い車体をグイグイ押し上げる。パワーステアリングを持たないものの、リアエンジン故の重量バランスと軽い鼻先が相まってストレスなくコーナリングできる。


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  腰高な乗り味とロール量の多いサスペンションはコーナーの度に一抹の不安を感じさせる瞬間こそあれど、ステアリングを定位置に戻せば直ちに姿勢を安定させる。余分な揺れ戻しや曖昧なリアクションも無い。

  この優秀なサスペンションは、耐久性、整備性に優れたエンジンと共に1953年、54年、62年の三度に渡る過酷なサファリラリーの優勝に大きく貢献した。エンジンを1.6ℓに拡大した'70年代には、ダウンヒルでの驚異的な強さを見せ、ボディへのダメージを厭わないアグレッシブな走りに難なく対応。「まるで転がり落ちてくるような走り」で1973年にアクロポリス・ラリーで優勝したミッチェリをすんでのところまで追い詰める走りを見せた。

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   コンパクトカーとしてだけでなく、ひとたびダウンヒルに足をふみ入れればライトウェイトスポーツカーとしての顔も覗かせるウィービル。その全てを剥き出した古いドイツ車は、使い方、楽しみ方、付き合い方、そして生き方の全てをドライバー自身に自由に委ね、苦楽を共にする一生のパートナーたり得る存在なのかもしれない。世界中のウィービルオーナーたちが、常に自分のウィービルが最も優れていると言ってはばからない理由がそこにはあった。

 

 

総評

   1974年には前輪駆動のコンパクトカー、クラブの登場によりドイツ国内での生産は'78年に終了となるが(とは言え、あの名車クラブですら4年間もパイを奪い切ることは出来なかったということか)、未だこの車を求める声は世界中で止まなかった。最終的にメキシコ工場で2003年まで製造されることになるが、1930年に基本設計が完成した自動車が70年間も姿を変えず愛され続けた事実にはただただ驚愕である。  

  もちろん、エナスやベネファクターの貴重な一部のモデルのような、メーカーが主体となったヒストリックカー・コンサベーション的キャンペーンも、メーカー純正パーツのリバイバル生産なども一切行われていない。そのため今現在まで走り続けているウィービルは80年以上もの間培われてきたオーナー達の集合知サードパーティ製パーツの飽くなき開発と再現性への尽力、そしてBF自身の、最後まで留まることのなかった「改良の貯金」が相まっての事である。

  しかし、今ほど豊かではなく選択肢が無かった時代に単に大量生産された、というだけではこれ程長い年月、世界中で走り回ることは無かったはずだ。人工物が長期間、朽ちることなく稼働し続けるには、絶えず人間が手を加え、世話をする必要がある。人間は冷酷だ。愛されないモノはいとも容易く人の手を離れ、ほんの数年でモノとしての命を失い、皆の記憶から消える。ウィービルは生産性も性能も価格も優れていたが、「愛され続ける」という最も難しい要素も備えていた。あなたが乗っているその車の燃費は?安全性は?デザインの満足度は?ふむ、なら、あなたは40年後も変わらず、その車を愛せているだろうか?


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  ウィービルは愛されていたから、みんな乗っていた。みんな乗っていたから、オーナーはあの手この手で自分好みにしたくなった。その簡潔でどんな改造にも無尽蔵に応えるゆとりある設計は、無限大の可能性を秘めたキャンバスでもあった。

  持ち前のラリーカーとしてのポテンシャルを最大限に増長したバハカスタムなんて基本中の基本。挙句の果てはボディパネルごとオープンスタイルに載せ替えた“ビフタ”。'80年代に大流行し、ベスプッチに映えるデザインは当時のカルチャーの一端を担っていた。

 

   時代に翻弄され、数奇な運命を辿ったウィービル。一歩間違えたら自国の汚名の一部を着せられ、正義の名のもとに押し潰されてもおかしくない存在であったはずだ。しかし、その設計思想と非の打ち所の無い機構、フィスターをはじめとしたドイツ人技師たちの不屈の精神とその愛くるしいルックスでたちまち世界中で評価され、ドイツを再び世界が認める工業国へと押し上げた。

    大衆車が大衆車たる真の意味での始祖であり、未だ変わることの無い自動車の基準点を確立したこの車。数十年後か、はたまた数年後か、手の届かないヒストリックカーになってしまう前に一度でいいから乗ることをオススメしたい。

 

 

 


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